藤原新也「渋谷」を読了。
「渋谷センター街」という砂漠で
渇ききった少女たちの気持ちを
理解しようともがく藤原新也。
著者がたどり着いた”原因”は
”母性禍”だった。
ただひたすら世間の価値観を押しつけるまなざしを
子供に投げかけることによって子供を追いつめ、
逆に子供の居場所や存在を奪っている。
ただし、
そのさらなる原因を著者は指摘している。
しかし過去の事件を探ってみると、
そのような家族では
はじめに父親が崩れているケースが非常に多い。
父が崩れ、それから将棋倒しのように母が崩れ、
そして子供が崩れている。
父親の存在感が家庭で薄まるにつれ、
母は父母の役割を担う全能な存在でなければ
ならなくなったわけだ。
3人の”子供”たちを通してみた現代社会。
それは父にも母にも見捨てられて、
”生きる意思”が希薄な時代だった。
0章のタイトル「おねがいわたしをさがして」は、
その救いのなさを象徴している。
しかし、最後の救いは、
「写真を撮る」という行為に
癒しの効果があるということだった。
つまり写真行為とは被写体となる人の
”今現在の姿を肯定する”行為でもある。
”肯定”を求める若者。
周りを見回すと人ごとではない。